酉蓮社と本尊聖冏上人像

  増上寺の別院酉蓮社

酉蓮社は、創建以来約270年の歴史を持つ由緒正しい浄土宗の寺院で、かつては芝の三縁山増上寺の山内にありました。
増上寺は、もともと真言宗の寺院でしたが、1393年、浄土宗に改宗して増上寺と改名しました。1598年、徳川家康の支援を得て現在地に大伽藍を完成し、徳川将軍家の菩提寺となり、三つ葉葵の御紋(寺紋)の使用を許されておりました。また浄土宗関東十八檀林の筆頭として、常時3000人の僧侶が居住して、学問・修行に励んでおりました。
その境内地は、「寺格百万石」と言われ、現在の増上寺を中心にして、西は東京タワー、北は東京プリンスホテルから御成門小学校にかけて、南は古川の上を走る首都高速都心環状線まで、東は大門の付近にまで及んでおりました。
増上寺の組織は、増上寺の住職である方丈方、寺持ちの僧からなる寺家方、修学中の僧からなる所家方に大別されておりました。住職は方丈・貫主とも呼ばれ、寺家方・所化方の統領として、増上寺全体を統括しておりました。寺家方は、坊中三十坊・御霊屋別当八院・御霊や別当三蓮社・別院十院などから構成されておりました。所化方は、山内の三谷と称される地域に百数十軒に及ぶ学寮を有しておりまして、修学僧3000人のトップ12名を月行事と呼び、修学僧を統括しておりました。
酉蓮社は、寺家方の別院十院の一つですが、所化方の修学僧のために作られた寺院でした。 

  酉蓮社の歴史

酉蓮社の歴史は、1749年初冬、増上寺の修学僧を育成するために、明版大蔵経2350冊が奉納され、増上寺山内の南東の角地に、約1000坪に及ぶ境内地を与えられたことに始まります。
1750年5月21日、この地に経蔵が建立され、浄土宗の開祖法然上人(1l33〜1212)が修行した黒谷青龍寺(比叡山延暦寺)の経蔵にちなんで「報恩蔵」と命名されました。これを管理する僧侶の住居には、酉蓮社の寺額が与えられました。この寺額は、増上寺開祖の酉誉聖聡上人(1366〜1440)の師である了誉聖冏上人(1341〜1420)の蓮社号にちなんだものです。本尊には古来より増上寺に伝わっていた聖冏上人の木造が祀られることになり、1750年10月20日に盛大な儀式の中、報恩蔵に奉納・安置されました。
酉蓮社を創建したのは、増上寺の修学僧を統べる月行事を務めた練誉雅山上人でした。雅山上人は新谷の学寮に住する修学僧の一人として頭角を現して学寮の寮主となり、1749年10月に月行事に就任して酉蓮社の創建に尽力しました。1752年頃、修学僧のトップで、ある学頭に昇進し、同年10月に関東十八檀林の一つ生実大巌寺の住職となり、1757年5月18日にその生涯を終えております。
その後の酉蓮社は、雅山の弟子筋の人々によって継承されていきました。
1806年、酉蓮社は火事によって一度焼失しております。しかし、この時焼失したのは酉蓮社の庫裏だけだったようです。酉蓮社の境内地は、増上寺の門前を北から南に流れる桜川が古川(旧赤羽川)に注ぐ角地にありました。中でも報恩蔵は、防火を意識して、庫裡から離れた南東の隅に建てられていたため、類焼を免れることができたのでしょう。
江戸後期の記録、特に寺社奉行による増上寺山内の見聞を記した古文書や、関東十八檀林の巡礼ガイドブックにしばしば報恩蔵の名が挙げられております。当時、報恩蔵は聖冏上人像・明版大蔵経を奉納する経蔵として広く知られていて、増上寺の参詣スポットの一つとなっていたようです。
酉蓮社は、祠堂金と呼ばれる寄付金を人に貸し付け、その利息として得た金銭によって管理運営されており、檀家を持ってはおりませんでした。明治時代に入ると、増上寺の擁護者たる徳川幕府が滅亡し、祠堂金制度が崩壊して貸し倒れに遭うなどして、廃寺の危機に見舞われたようです。
追い打ちをかけるように、明治4年(1871)1月、酉蓮社の境内地は、明治政府によって召し上げられ、半分以下に減少しました。さらに増上寺山内に海軍が転入してきたことで、行き場を失った北谷の僧侶達に酉蓮社の庫裡を譲り渡しました。その結果、その境内地はわずかに報思蔵周辺を残すのみとなり、明治6年11月には住職不在の寺院となっておりました。
明治20年8月、かって増上寺の御霊屋別当寺院であった通元院が、その境内地を東京府に売却して、酉蓮社の旧境内地に移転してきました。当時の通元院住職、河野密円は、もと北谷三島谷の学寮で修学に励んでおりましたが、海軍の転入によって酉蓮社に移り、明治10年頃、酉蓮社の学寮主を名乗っておりました。その縁で酉蓮社の旧境内地を通元院の移転先に選んだのでしょう。以後、酉蓮社の住職は通元院の関係者によって継承されていきました。
通元院は明治維新を経て、その寺院としての格や収入を失ったものの、東京府に境内地を売却して得た資産があり、さらに瘡守稲荷の祭礼による収入もあり、潤沢な資金を有していたようです。そのため酉蓮社の管理運営を援助できたのです。
大正12年9月1目、関東大震災が発生しましたが、東から迫っていた火災は将監橋付近で、収まり、酉蓮社の被害は軽微だったようです。しかしながら、その後、昭和初期にかけて震災復興計画で建設された道路によって、酉蓮社の境内地は南北に分断され、建て替えを余儀なくされました。この時建てられたのが、建坪16坪弱の鉄筋コンクリート造の報恩蔵で、その写真が今も残っております。
昭和20年3月9日・10日、5月24日・25日の東京大空襲によって増上寺周辺は壊滅的な打撃を受け、酉蓮社も焼失しました。本尊である聖冏上人像は、戦時中の混乱の中で行方不明となりました。
戦後間もない昭和27年10月31日、酉蓮社は宗教法人としての認可を得、さらに昭和30年から31年にかけて、建坪約20坪の木造平屋建ての本堂・庫裡が完成しました。かくして戦後復興への道を歩み始めた酉蓮社でしたが、昭和38年、その境内地を都市高速道路2号線の建設用地として首都高速道路公団に売却して、現在地の東京都目黒区平町に移転することになったのです。 

  本尊聖冏上人像

酉蓮社の本尊は、増上寺開山の酉誉聖聡上人の師僧である、浄土宗第七祖酉蓮社了誉聖冏上人像であります。眉間に三日月の文様があったことから繊月上人と呼ばれております。
ところで、浄土宗に詳しい著名な史家は、「弘安10年三祖良忠入滅より聖冏出生に到る100余年間は、本宗最衰微の時代であった」と嘆じております。当時の真言・天台・禅などの他宗は、自分達こそ仏教の本道であり、その時代新興勢力であった浄土門は、補助、あるいは従属的な役割しかもたないものとして、寓宗とか謗法とかと誹り、批判を一斉に繰り返したためであります。それをはねかえし、浄土門が一宗としての独立を認めさせるためには、釈迦一代の仏教の中で宗としての独立性と存在意義を明らかにするほかはありません。そのためには一代仏教のすべてを学習・知悉し、その上での教相判釈が必要になります。聖冏上人は25歳の年に真言・天台・禅・法相・律・倶舎等の研宗に出発し、永徳3年(1383)下総の横曽根の談所において「二蔵二教略頌」を撰し、次いで至徳二年(1385)「釋浄土二蔵頌義」を著し、二蔵二教の教相判釈を完成させたのでありました。翌至徳3年(1386)、漸く研宗を終えて郷里の常陸国(今の茨城県)の瓜連常福寺に帰国したのでありますから、研宗期間の通算は、二十年の長きに及んだということになります。
「二蔵頌義」で抽出・構築した一代の仏教は次の通りのものに成ります。聖冏上人は一代仏教を、先ず小乗仏教の声聞蔵と大乗仏教の菩薩蔵の二蔵に大きく分類し、次いで菩薩蔵を漸頓二教に分けて、次第階位を借らないで頓速に往生するものを頓教と名付け、次いで頓教を細分して、性相二頓に分判しました。そして教相判釈をした結果、唯理・唯性の華天禅密を性頓と呼び、事理従横・即相不退・頓中頓の浄土宗を相頓と命名し、一代の仏教中、最も優れたものは頓中頓であると結論したのであります。この結果、浄土宗の特質・存在理由が始めて具体的な様相を呈し、経論によって実証されたのであります。聖冏上人の頓論を傍聴した庶民・武士・僧侶の反応を「鎮流祖伝」は次のように簡潔に記しております。「説法沛然緇素欣歆二相頓之玅味一」。すなわち、聖冏上人の説法は今まで聞いたこともないような豊饒な話がとめどない勢いで、次から次へと説かれていくので、聴衆はひたすら聴き惚れてどよめいていたが、特に頓論を説いたくだりでは、その奥義の凄さに衝撃を受け、会場全体が声を喪ったと記録されておりました。
また、至徳三年に聖冏上人は「浄土伝戒論」を著し、浄土宗の円頓戒を系統だてて論じました。その結果、それまで延暦寺やその他の大寺に寄宿して作法を習い、僧侶の資格を受けていたのをやめ、浄土宗の一宗で僧侶資格を授けることが可能になり、独立が実行できるようになりました。
一宗独立の実証的教相論と伝戒論という輝かしい業績を成し遂げて帰郷した聖冏上人にとって次になすべきことは、伝法の在り方を構築することであります。それまで浄土宗内でバラバラに伝えられてきたものを体系的に組織し直し、これを五重に分けて、伝法の奥義とし授与されることになり、五重相伝(五重血脈)と呼ばれるようになりました。明徳四年十二月、五重に分けた各々の血脈を整え、かつこれに口訣を添えて、上足の後の増上寺開山の聖聡上人に授与されたのでありました。これが浄土宗五重相伝の始まりであります。
ちなみに浄土宗第八祖に列せられた聖聡上人は、入門幾もなくその人物と英才を聖冏上人に認められ、僅か二十歳にして畢世の大著「二蔵頌義」を、聖聡のために作ったという奥書を付けて贈られたという破格の待遇を受け、以来常に随して給事し法要を禀申すること九年、最初の五重相伝を授与されたのであります。
その後聖冏上人と高足聖聡上人を始とした他の弟子たちは関東の各地に勢力を張り、互いに競い合って伝法の布教に従事し、関東地方はおろか、遠く三河(愛知県の東部)を経て、宗祖法然上人ゆかりの京都の浄土教の大寺にまで聖冏上人の二蔵二教の教学を浸透させ、浄土宗を飛躍的に発展させたのであります。そして、関東の十八檀林とよばれる浄土宗の教学の中核に、聖冏上人の二蔵二教が占めることになり、聖冏上人は浄土宗中興の祖として仰がれたのであります。
 痛恨の極みでありますが、聖冏上人の像は、戦時中の混乱の中散逸してしまい、今は御本像としての聖冏上人像を拝することはできません。しかし、法然上人が万民救済のためにお説きになった称名念仏のお教えに、伝法の正当性を実証するための新しい視角を発見・析出し、それを大成させ一宗としての独立を守り抜き浄土宗発展の礎を築いた聖冏上人の煌煌たる志は、今後も永く消えることはないでしょう。

  増上寺旧境内の酉蓮社


東南の角地赤丸の中が酉蓮社。隅に報恩蔵が見える。南側が古川、東側が桜川。

  酉蓮社旧報恩蔵


昭和17年頃の鉄筋コンクリート造の酉蓮社報恩蔵。

  本尊聖冏上人像


増上寺開山堂所蔵の聖冏上人像。開山堂には正面に増上寺開山聖聡上人像、左に観智国士像、右に写真の聖冏上人像が祀られている。

  明版大蔵経


三田龍原寺から戻った当時の明版大蔵経。

  現在の酉蓮社


平成元年に竣工した鉄筋コンクリート造の酉蓮社。奥が二階建で半地下にホールと納骨堂があり、上が本堂、手前の三階部分が庫裏になっている。

  酉蓮社年表


増上寺日鑑、酉蓮社資料などを東洋文庫勤務會谷佳光文学博士の詳細な研究により作成された。

  酉蓮社志稿


會谷博士が執筆された酉蓮社のことが詳しく論じられています。
江戸時代から現代に至までの酉蓮社および学寮を知る上に貴重な資料です。非売品のために一般には出回っておりません。主要な図書館には献本してあります。PDFですべてお読み頂けます。引用をする場合は出典を明記してください。

>酉蓮社志稿 17.6MB

  聖冏伝序説


大先輩である村田師が著した貴重な聖冏の思想史です。
非売品のため一般には出回っておりません。国会図書館など著名な図書館には献本してあります。聖冏が浄土宗の教義を確立した背景がつぶさに分かります。PDFで全文お読みになれます。引用する場合は出典を明記ください。

>聖冏伝序説 7MB 

  各寺院に見る聖冏上人


浄土宗全書掲載

芝増上寺開山堂蔵

>増上寺Webサイト


小石川伝通院蔵

>伝通院Webサイト


小石川伝通院繊月会館蔵

常陸太田香仙寺蔵

>香仙寺Webサイト


常陸太田香仙寺蔵

瓜連常福寺蔵の聖冏像

>常福寺Webサイト


館林善導寺蔵

>善導寺Webサイト